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ビョン・ヨンジュ監督のインタビュー記事から。原文(2012年10月2日掲載) <前略> 『低い声』の慰安婦お婆さんや、撮影監督だった『送還』の長期囚のお爺さんは、私たちの社会においてとても特別な、しかし簡単には近づけない存在だった。彼らの物語を紡ごうと思った理由は? 『低い声』の前に『アジアで女性として生きるということ』というビデオ・ドキュメンタリーを作ったが、チェジュ(済州)島のキセン(妓生)観光に関する内容だった。もともとはキム・ドンウォン監督の友人の方がキム・ドンウォン監督に頼んだのだが、自分には難しくてつらそうだったから私に押し付けたのだ(笑)。キム・ドンウォン監督はとても立派な人に見えるが、実はとても抜け目ない人だ(笑)。済州島の料亭で働いているお姉さん2人に会って一緒にインタビューしたのだが、作品がすごくダサい。フィルモグラフィー(作品履歴)に入れたくないほどダサかったが(笑)、性売買問題を扱っていたからか、教会で女性人権運動をやられてる方々の主催で試写会までやった。試写会が終わたあと、仲間たちとの打ち上げでは本当にたくさん泣いた。 そんな中で私が言った一言を覚えている。「本当の監督になりたい」。そのとき、初めて本当に映画を作る監督になりたいということを考えた。ならばどんな映画を作ろうかと考えていたころ、料亭にいたお姉さんの一人が、初めて性売買をするようになった理由は、そのお姉さんのお母さんが胃癌と子宮癌にまでかかり、手術費を用意するために工場で働いた末に初めて体を売ったという、イ・ヒョンセ作の漫画にでも出てきそうな現実を見つけたくて、何の準備もなく当時、ハプジョン(蛤井)洞にあった『ナヌムの家』を訪ねてお婆さんたちと遊ぶことを始めた。およそ1年半を遊ぶと、お婆さんたちが「若いのに遊んでばかり」と言い出して、一緒に作業を始めることができた。 日本軍慰安婦問題は、私にとって大して重要な問題ではなかった。私にとって重要だったのは歴史的事実云々ではなく、五十年間も世間の人々から徹底的に自分自身を隠していた人々が唐突に世間に向けてカミングアウトを行ったとき、それ以降、お婆さんたちの人生がはたしてどう変わったかについて興味があった。だから『低い声』が作られたのであり、最初から続編を作っていくつもりはまったくなく、8年間で3作も撮ることになるだろうと知っていたなら始めたはずがない。一本作ったらお婆さんたちがまた作ろうと言ったので作り、それを作ったら今度はこういうのが少し必要そうだといわれたから作った。つらいことも多かったが、20代中盤から30代中盤まで、私の人生でもっとも若かった頃をお婆さんたちと一緒に過ごしたことはとてもよかったと思う。 どんなところがよかったのか? 私はもう世の中のすべてのことがイシューとして感じられない。双竜車問題で例えれば、それはただ、大韓門の前に人々がいて、彼らの友人が死んで、彼らの家族が散り散りになり、子供たちが傷を負っていることなのだ。ならば私たちは、その人たちの話を聞く義務があるのだと思う。なぜなら私たちは同じ時代を生きているのだからだ。同じメーカーのラーメンを食べている。主張をしに行ったり、手と手を取って旗を振るいに行くのではなく、聴きに行くことこそ、私にとってもっとも先にすべきことのように思える。聴くことが私にとってもっとも必要なことであり、それは結局、私自身からその答えを聞くために努力することだ。日本軍慰安婦問題は可哀想なお婆さんたちの問題ではなく、「私たちが世の中に立ち向かうためには、あとどれぐらい勇気があれば足りるのか」という私自身への質問にいつでも変換できるということを学べた。 20代の血気盛んな時間、『低い声』が1作目から2作目、2作目から3作目につながったことへの恐れはなかったか? 『低い声』の続編を撮るときがもっとも恐ろしかった。『低い声』の続編はほかの人から「付き合っているのか」と茶化されるほど仲の良かったお婆さんの一人が肺癌末期と判明され、死ぬまで自分を撮ってくれといわれて始めたことだった。ところで残り3ヶ月といわれていたお婆さんは1年半、ご存命で、その1年半が私たちにとっては本当に地獄のようだった。私たちは金を持っていなかったからだ。『低い声』は大きな反響を呼んだように思われているが、劇場で観た人は5000人もいない。私たちは当時すでに7500万ウォンほどの借金を抱えており、日本公開を前にして逼迫している状況の中で2作目を作っていたのだから、およそ6ヶ月が過ぎた頃に金が尽きた。お婆さんはずっとご存命だし、殆どの肺癌末期患者がそうであるように、2ヶ月に一度は応急室に運ばれることが繰り返された。そうやって1年が過ぎると、お婆さんが病院に運ばれたときに「どうしよ、お婆さん?」ではなく「今度はお亡くなりに?」と考えるようになったのだ。 ある日、お婆さんがまた病院に運ばれ、助監督が看護士を見たとたん「今度は亡くなられますか?」と言って自分の言葉に自分で驚き、罪悪感でとても苦しんだ。私たち皆がその頃は罪悪感に包まれていたように思える。お婆さんが応急室に運ばれることは喜ばしいことでも悲しいことでもなかった。今度こそは終わってほしいというふうに考えたし、それが本当につらかった。当時、病院は中央病院だったが、私は未だに中央病院には近づかない。いつかお婆さんにぶちまけてしまったこともある。お婆さんはひどいと。本当に悪いお婆さんだと。お婆さんのせいで今の私は本当につらいと…そんな中、私がお婆さんをモチーフにして書いた劇映画のシナリオが、ロッテルダム映画祭に受かり、ちょっとその映画祭に出かけることになったが、私がロッテルダムへ行ったとたん、次の日にお婆さんが亡くなられた。その連絡を聞いたとたん、私は内心、お婆さんを本当にひどい女だと考えていた。帰途につきながらも「え、逝ったの?本当に逝った?」そんな感じだった。 『低い声』の続編が観客からの反応がもっともよかったのは、亡くなられたお婆さんが実際にいて、そのお婆さんの隣に相変わらず社会の中で暮らしている別のお婆さんたちがいるということが若干のブラックコメディー的な感覚で作用したからではないかと思う。しかし、私には、相変わらず2作目は正視するのがつらいほど、もっとも苦しい時間だった。だから『息づかい』(『低い声』3作目)を作ったのだと思う。お婆さんによって受けた傷をお婆さんから慰めてもらいたかったし、だからより徹底的に撮影監督となり、お婆さんたちの話を収めたのだ。慰安婦だったお婆さんたちが出会い、仲間たちの証言を聞くというのが『息づかい』という作品だが、それは私にとってすさまじく慰めとなる映画だった。撮影があったある日、インタビューをしていると、あるお婆さんが別のお婆さんに「姉さん、私は台湾に連れて行かれたけど、姉さんはどこに連れて行かれてたの?」と話した瞬間、私はすごく幸せな気分になった。 「私がやりたかったことは、結局はこれだったのだな」と考えた。「お婆さん、どんなことを経験されましたか?」ではなく、「私はここに連れて行かれたけど、あなたはどこへ連れて行かれたの?私はこういうことをされたけど、あなたはどういうことをされたの?」と話すところを、今まで聴きたかったのだ。被害者の声が被害者によって構成される。そのことからすごく慰められた。 <中略> 『低い声』3部作を終えたとき、「映画は拝見していませんが、本当にご苦労様です。立派です」という話を聴きすぎて、劇映画に移るとき「観てなくては賞賛もできなければ叩くことも難しい映画を作りたかった。政治的ではない、政治的に支持されるはずのない映画を作りたかった」と話したと聞いている。今でもそうなのか?ところで「政治的ではない、政治的に支持されるはずのない映画」とは何なのか? 『息づかい』まで作ったとき、映画としてではなく、私の名前が有名になるということは可笑しなことだと考えた。「映画は拝見していませんが、本当に立派なことをされました」という話を聞いて「どうしてそんなことを映画を作る監督に平然と言える?区議員にでも出馬すればいいのか?」こんな冗談が浮かんだほど、おかしいと考えた。そうして『低い声』のように「観もしないで褒めることができる映画、映画を観なくても紙面に観るべき映画だと書ける」そんな映画ではなく、「映画を観る前にはどんな評価もできない映画を作らなければ」と考えた。そもそも私は褒められたくて映画に関わったわけではないし、もともと劇映画をやろうとしたのが『低い声』を終わらせられなくて遅延していたわけだから、これが終わってからは劇映画をしようと思っていたのだ。 なのに私がこれからチュンムロ(忠武路)に行って劇映画をやるといったとき、すぐ入ってきた提案が何だったかというと、日本軍慰安婦問題に関する劇映画たちだった。一番最低な選択だと考えた。私が完全に空間を移し、自らの欲望を追っていったのに、そこでまた慰安婦問題のような劇映画を扱うなら、まるで「私は変わってません」と言いながら自分を偽ることのような気がした。だから社会的なイシューや政治的な話が正面から表れるものではなく、とても日常的で、くだらない素材から出発すべきだと考えた。叩かれるとしても人々が観てから叩けるようにだ。そのとき私のプロデューサーが勧めてくれた本がチョン・ギョンリン作家の『私の生涯でたった一日だけの特別な日』で、何よりも作家のフェミニン(女性的)な文体がすごくよかった。「こんな文体をはたして映像で具現できるのか」と考えたが、でもすごくよかったので『蜜愛』を作ることになった。内容自体は「夫のせいで浮気をし返して私の人生はダメになったけど、今は元気にやっています。編集者さん」と、まるでサンデーソウルにでも載りそうな読者投稿みたいだけど(笑) <中略> 「映画というものは常に失敗と興行の屈曲を繰り返す。失敗への恐れで枕を涙でぬらして明かした夜は数え切れない」と話したが、そんな恐れをどうやって克服するのか? クランクイン(crank in)の朝にはビビるので全部吐いてから出かける。いつも前日は同じ夢を見るが、劇場で私を嫌う人たちが大勢で映画を観にきて、私をあざ笑う夢だ。しかし「だからどうした」と考える。プレッシャーは堪えるためにあるのだし、ストレスは受けるためにあるのだ。ストレスを受けないで生きるには、がんばって徳を積み、後生ではエコ農場でひよっ子や牛、豚に生まれて安全にストレスをまったく受けず、無抗生剤で生きた末に美味しい料理になればいい(笑)。プレッシャーやストレスは受け止めるためにあるのだと思う。しかし無抗生剤でストレスなしで生きられるなんてうらやましいとは思う(笑)。 『火車』はシナリオを20稿まで書いたという話を聞いたが、もともと自らが満足するまで突き詰めるタイプなのか。それは別の表現をすれば時間との戦いで退かないということを意味するが、言うのは簡単だが、本当に実力が必要なことだと思う。 決して諦めてはいけないと考えた。『蜜愛』や『バレー教習所』のことを思うと、いつも途中で立ち止まったことで興行に失敗したように思える。言い換えれば『火車』が比較的うまくいったのは、私が商業的なものが何なのかを悟ったからではなく、途中で歩みを止めず、最後まで行ってみたい方向へと歩いていったからだと思う。実は私は商業的なものとは何なのか、未だによく分かっていない。 <後略> *検索で見つけた、参考になる日本語記事(勝手ながらリンクさせて頂きます) 『息づかい』:抑圧された女性たちの声 / 『息づかい』紹介記事(シネマコリア)
by hanrano
| 2012-10-04 08:02
| 韓国の作家
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